雨蛙の賦

台湾・嘉義インターンシップ日記

15. 表現者としての小説家と登山家

こんにちは、ゆうです。

 

だいぶお久しぶりになりますね。最近はどんなことをしているのかというと、台北まで日台関係を研究している日本人教授にお会いしに行って、東アジア情勢や台湾政治についてお話をうかがったりしていました。絶妙な均衡上にある両岸関係から国際政治のダイナミズムや欲望渦巻く台湾政治から濃密な人間関係に触れ、エキサイティングな時間でした。

また仕事では社内唯一の日本語話者として重要な案件のテレアポに成功し、上司が出張に行ったため、商談の相談を直接社長としなければならず、緊張でおなかが痛い日を過ごしていました。人生のどこで役に立つかわからないのでテレアポ力は鍛えておくべきです。久しぶりですごい下手なテレアポでしたが。

 

久しぶりなのにも関わらず台湾とも仕事とも全然関係ないことを書きます。でも、きっと”働く”ということを考えるにあたって、いつかつながっていくでしょう。

最近はKindleで『村上さんのところ』という村上春樹さんが読者から寄せられた様々な質問に回答していくという本を読んでいます。すべてで3000通を越える質問があり、読んでも読んでも残りが減らない大変ありがたい(?)本です。

その回答の1つにとても驚かされたことがありました。

作品を執筆する際に「このメッセージ」を伝えたいことを明確にしてからとりかかるのかという質問に対して、

とくに意図ってないんですよね。最初なにかの断片があって、それがちょっとずつ僕の中で膨らんでいって、そのうちに物語になっていきます。すごく自然に。テーマもメッセージも、そういうものはとくにありません。あるのかもしれないけど、僕にはわからない。僕はただ文章を使って話を書いているだけです。お役に立てなくて申し訳ないですが。」

(『村上さんのところ』より)

 村上春樹さんの本を読むと、美しい文章の裏に何か必ず伝えたいことがあるのだと思っていました。しかし、そこに込められている意図というのは村上さんにとってはなかったのだといういうことは私を驚かせました。村上さんは自分の小説を総体として読んでほしいということもおっしゃっていました。

つまり村上さんにとって社会に表現したいことは誰にでもわかるように言語化されたものではなく、(言語化されてはいるが)小説そのものであるということになります

 

またこれは最近読み終えた本で宮城公博さんの『外道クライマー』という解説を、私の好きな角幡雄介さんがされていました。

この解説には登山には強い美しいラインを示す表現的性格があるということと、登山一般には反社会性を内包しているということを踏まえて、宮城さんらの起こした那智の滝登攀事件は社会に反社会性を内在させている登山というものを社会に対して強く示した、というように書かれていました。

「登りたいから登る。誰も登っていないから登る。そこに自由がある。この道徳律は登山的観点からすると完璧で、一分のスキもない。(中略)たぶん宮城君は、こうした反社会性を内在させたむき出しの登山的道徳律を社会に対してぶつけてみたかったのではないか。」

(『外道クライマー』の解説より)

 

小説を書くということも那智の滝を登るということも自己を表現する手段になりえます。それは音楽も絵画もスポーツも何もかもがそうです。もっと一般的な仕事においてもきっとそうです。

自分自身の”働く”行為にも自己表現は内在されています。そしてそれは簡単に言語として表現することができない総体としての自己の表現なのではないかと思うのです。

言語化するという行為が非線形なものを言語というツールによって自分にも他者にも伝わる形で線形化するという行為であるのなら、そこには線形近似された際に必ず切り出されるものがあります。しかしそれを言語以外の手段で表に出すことよってより総体としての自己を表現できるということを考えます。

 

ここまで書いてきたわかったことは自分は迷子状態にあるということだけでした。考えはまとまるどころが混迷の様相を呈しています。しかし自分について考えることはおもしろいものです。思いっきり迷えるこの時間をとても幸せなものに感じています

 

土曜日は会社の人にマンゴーフェスティバルに連れてってもらうので久しぶりに台湾らしいことを書きたいと思います。笑 お楽しみに!