雨蛙の賦

台湾・嘉義インターンシップ日記

12. 2カ月経ちました

こんにちは、ゆうです。

 

最近、近所のセブンイレブンのバイトのお兄さんに映画に連れていってもらいました。「Dangal(台題:我和我的冠軍女兒)」というインド映画を見たのですが、英語字幕が小さくセリフ半分くらいしかわからなかったですが、いい映画だったのでみなさん見てください。

 

すでに台湾に来てから2カ月が経ちました。早いもので残すところはもう10カ月くらいですね。非日常に感じていた空間がだんだん日常に感じてきます。大学生になり一人暮らしを始めたときもそうだったのかもしれませんが。

 

最近では顧客開拓のためにメールを送ったり、情報を収集したりしています。インターン先を探すときには「日本人である」ということ以外にただの学生に特に会社に大して貢献できることはないと考えていましたが、逆に考えると日本人であるというだけでただの学生が会社に多少なりとも貢献できるという考えかたにもなるんだなと最近考えています。

私が働いているのはメーカーなので、普段意識する以上に国境というものは確かに存在しているのだと感じます。出荷のためには様々な書類を書かなくてはならず、とりあえずテレアポして、営業行ってということもできません。国という境界は言語や意識、距離で思ったよりも明確に隔てられています。

 

台湾人というのは本当に人とのつながりを大切にするなと感じます。火鍋やボウリングに連れて行ってくれた近所の食堂の店主家族や映画に連れて行ってくれるセブンイレブンのお兄さんや飲みに連れて行ってくれた同僚から、さらに高校の同級生と15人くらいと旅行に行く人やおそらく60歳に近くなっても高校のときの同級生とカフェでお茶をするおばさん達からそれを感じます。

感覚的な話になりますが、台湾人は日本人より幸せそうな人が多いです。その原因は一つは人間関係にあるのではないかと思います。幸福を感じる要因は人によってさまざまです。しかし、周囲の人、家族や友達という身近なコミュニティに感じる心地よさはきっと多くの人が共有してもつ幸福感の源なのではないでしょうか。

台湾はいいところだ、と強く思います。旅行で来るのとはまた違う、長くこの地にいるからこそそう強く感じます。

台湾人は別に特別にフレンドリーなわけではありません。初対面では日本人同様に微笑んで会釈をかわします。しかし、時間が経ち、会う回数を重ねていくうちに、彼らの親切さは度合いを増していきます。そして私は彼らに受け入れられていくと感じます。それは言葉が通じなくてもそうです。一緒にいる心地よさは言語によるものではありません。ただ、受け入れるという意識だけが必要なものなのではないかと思います。

しかし、言語が通じないと知ることはできません。私は高野秀行さんの本がとても好きで台湾に来てからKindleをつかってたくさん読んでいます。辺境ライターの高野さんは、言語オタクで現地の人と現地語で話すことがとても好きだそうです。言語によるコミュケーションは知識を与えてくれます。私は多くの台湾人について深く知ることや彼らから知識を得ることはやはりできません。

 

絶対的なものを大事にしたいと前から考えていました。人と比べてではなくて自分がどうかという尺度で物事を測っていきたい。人の幸福の感じ方は人それぞれであると先ほど書きました。世間のなんでもない暮らしをしている人の中にも本当に幸福な人はたくさんいるように、ここにきて強く感じます。

自分が心から何を欲しているのかを理解すれば、それを満たすことで人は幸福になれると思います。もちろんそれは何もしなくていいわけではありません。自分の欲すものを得るための努力はする必要はあります。しかし、相対的な尺度で物事を見るとき、その努力は自らの幸福と関係ない方向へとむかっていく危険性を持ちます。

「自分がわからない」と、人は良く言います。確かに自分という存在はよくわかりません。それでも自分以上にわかるものがこの世界中にあるのかと考えると、おそらく自分以上に私が理解できるものはないということは自明であるように思えるのです。

自分という非線形な存在は誰にも完全な把握することはできません。かつ時々によって揺れ動きます。そのあいまいな存在を理解するためには自分以外との関係の中に無数の試行を繰り返していく作業が必要であると思います。未知のものと触れたときのときめきが、好きなものに触れたときのやすらぎが、怖いものに触れたときの躊躇が、嫌いなものに触れたときの嫌悪が、そういったすべての感情が自分というあいまいな存在の輪郭をすこしづつあらわにしていくでのはないか。

 

人には生物としての根源的な感情があると思います。死への恐怖はその1つだと思います。人は自らが死ぬことにも、他者が死ぬことにも根源的な恐怖を感じます。しかし、その恐怖すら乗り越えてきた人というのはたくさんいたのですね。自分の大切なものを守るために死への恐怖すら乗り越えることが人にできます。

死を賛美したいわけでは全く持ってありません。ただ人は生物としての自己を自らを律することによって越えていくことができるのではないだろうかという可能性を示したいのです。

自分は作られているものではなくて、作り上げられていく、あるいは、作り上げていくものなのではないか。そうであれば、やはりすべての人が幸福を満たしつつ、だれも傷つけられない調和が、世界に訪れることは、希望として信じられると思うんです。

仮に誰かに勝つことがダーウィンの進化論のように生物にインプットされている本能なんだとしても、それを乗り越えて絶対の中に物事を決すことができたら。

きっと人に劣ることに苦しんだりすることはなくなり、自分の心地よさを求められる、そして、自分以外の心地よさも認められるんじゃないかな

茫漠と広がる思考の中を少しでも言葉にしたくて文章を書いてきました。この地では、人の幸福について考えさせられます。