雨蛙の賦

台湾・嘉義インターンシップ日記

3. ボイスメッセージが大好きな中国人

こんにちは、ゆうです。

 

今日はしっかり一日中仕事をしていました。笑

先週まで日本にいた、私のインターンシップの担当の社員のかたに日本は寒かったかと聞くと、夜は5℃くらいであったとのこと。やはり徐々に春に近づいているのだなと思った一方、ここは台湾・嘉義。

北回帰線の真上に位置し、熱帯と温帯を隔てるこの地では日中30℃の暑さです。(明日は涼しいらしいけど。)台湾暑いです。これは台湾の巷にお茶スタンドがあふれかえる意味がよくわかります。(お茶についてはまたいつか書きます。)

 

さて、今日は、私が半年前に上海に旅行して以来謎であった、「電車の中でも中国人は延々と電話とボイスメッセージでしゃべり続けているのはなぜか」という疑問に対して有力そうな解が得られたので、そのことについて書きます。

そもそも中国人には電車の中で電話してはいけないという文化はないらしく(台湾でも一応やめるように放送はあるけどあまりそういう文化はないらしい)、電話している人も周りの人も気にしないという背景はあります。

それにしても、文字で書くよりボイスメッセージを好むはなぜなのかという疑問は私には残りました。今日前述の私の担当者(大学では日本語を専攻、かなり上手に日本語を操る)にそのことを話すと、中国語はかなり合理的な言葉だから書くよりも話したほうが早いのだろうと言っていました(台湾人は書くほうが好きなそうですが)。

なるほど! 確かに第二外国語で習った中国語は非常に文法が単純な上に、中国語を話している中国人はよどみなく早口で話しているように見えます。

 

ここで一つ私は長い間の謎であった、「電車の中でも中国人は延々と電話とボイスチャットでしゃべり続けているのはなぜか」という疑問をひとまず納得した形で処理することができました。

 

しかし、もう1つの疑問が私の中に浮上してきました。少し考えると、「同じハイコンテクストな民族といわれる日本人と中国人であるのに、一方はひどく複雑な言語を使用し、もう一方はひどく簡便な言語を使用するのはなぜか」という疑問に行き当たります。

(ここからは正直生半可な知識で論を進めていくので、私の主観的な意見としてお読みください。)

 

ハイコンテクストとは何かというと、コミュケーションの際に共有しているものが多く、言語を解せずに察することが重視されるということです。

より正確にはWeblioからコピペをば。

文化人類学者E・Hホール理論における文化区分一つで、コミュニケーションに際して共有されている体験感覚価値観などが多く、「以心伝心」で意思伝達が行われる傾向が強い文化のこと。一般的に日本の文化は「空気を読む」ことや「状況察する」ことが重視されることから、ハイコンテクスト文化であるといわれる。ハイコンテクスト文化に対して言語による意思伝達対す依存の強い文化ローコンテクスト文化と言う

Weblio辞書 実用日本語表現辞典より)

 

日本人である私たちは普段から「空気を読む」ということを非常に重視していますよね? 「空気が読めない」人は時にはコミュニティからつまはじきにされてしまうわけです。

これは私たちが普段使う、この日本語の特徴にも非常に合致していると私は思うんです。例えば「てにをは」。会社で台湾人の人が書いた文章を見てるとこの助詞の使い方は非常にくせもののようで、日本語として自然な文章が書けていません。

こんなややこしいものは例えば、英語には存在しないわけです。「これがいい」も「これはいい」も「これでいい」も、「This is good.」です。

 

他にも日本語はとても表現技法が多い言語だと思います。少し日本語と英語を比較してみます、「散歩」とかどうでしょうか。ここでも英語はWeblioを利用すると。

さんぽ 散歩

散歩する

take a walk [stroll, turn]

stroll

【形式ばった表現】 take the air

遠くへ散歩に出る

take [go for] a long walk

go walking.

Weblio辞書 研究社 新和英中辞典での「散歩」の英訳より)

 

要は「散歩」=「Walk」です。しかし、日本語の場合例えば、「そぞろ歩く」。「散歩する」よりさらにあてどなく、気楽に歩く様子を感じられます。あるいは「漫歩する」。この言葉も「散歩する」より非常にのんびりとした雰囲気を感じます。

こんな言語表現はローコンテクスト(言語の意味を伝えることが重要である)な言語である英語にはないのではないかと思えるのです。それに対してハイコンテクスト(ニュアンスを伝えることが大事)な言語である日本語にはこのような言語表現があるのだと思うのです。

 

この辺でみなさん、「じゃあ、中国語はどやねん」と思われることだと思うので中国について。これが不思議なことに同じハイコンテクストな民族だといわれる大陸中国の中国語にはこのような玄妙な言葉遣いは感じず、会社の方の言う通り合理的な言語だと感じるのです

この違いはどこから生じているのか? 一つすぐに考えられるのは、今の中華人民共和国が成立してから、「普通话」つまり標準語として言語が丸められていく、つまり言語表現が単純化されていく過程で、日本語のような言語表現が失われていった、ということです。

この仮説のもとで言うと、もしかしたら共産党ハイコンテクストな言語からローコンテクストな言語を作り出すことによって、中国に暮らす人そのものを以前よりローコンテクストに変えたのではないかという見方もできるわけです。

 

以上、述べてきたことはなんの学問的なバックグラウンドもない私が思いつきで書いてきたものです。さらにここ台湾で生活し、中国語にも台湾語にも触れるなかでまた考え方は変わっていくことでしょう。また、勉強を行うことによってより合理的な仮説を作れることと思います。

 

ただ私が今強く実感したのは、言語(あるいは文学)を知り考察することによってその地で暮らす人の感情や考え方が深く見えてくるのでないかということです。

そこに言語学習や文学研究の大いなる価値はあるように思えるのです。

 

余談になりますが、私は自分の思っている思考や感情がほとんどそのままの形でつむげるこの言葉が、とっても好きです。言葉が変わるから人が変わるのか、人が変わるから言葉が変わるのか。50年先も100年先も私の好きなこの言葉が、形を変えながらも素敵な言葉であり続けてほしいと、ここ台湾の地で願うのです

 

今日思ったことをすぐに言葉にしたくて、まとまりのない文章になったかもしれません。最後まで読んでくれた人には感謝いたします。

それではおやすみなさい。